<汚愛 - owai>

序章 「外道は集う」

ここは真純(ますみ)にとって天国そのものだった。
ここから眺める外の景色は、地獄の凄惨さを伴っている。
真純の脳は、心地良さに溶け込んでいた。涼があり、喉の渇きをいつでも潤すことが出来る。真純は、外の世界の人達にもこの幸せを分けてあげたいと切に願っていた。しかし同時に、それがただのエゴであることに、真純は気づいている。現に、その人々が熱にのたうち回る様を見ていると、真純の感じる涼しさは一段と増すのだ。
下らない思案に耽っていると、何やら話し声が聞こえてくる。
「……それで私ね、『割れた眼鏡の修理代、どうしてくれんのよ!』って怒鳴ったの。そしたらその男、あたふたあたふたきょどってんの。それ見て私笑っちゃって……!
そしたらソイツ、どうしたと思う?」
急に振られた話題に、真純は曖昧に返した。
「ん? さぁ?」
「そしたらさぁ、そいついきなり走り出して逃げちゃったのよ!
眼鏡の弁償もしないでよ?
ムカつかない!?」
「うん、分かる分かる」
適当な相槌に気づくこともなく、彼女は話を続ける。真純は彼女の顔をじっと見るが、彼女はそれにすら気づかない。
「あの眼鏡気に入ってたのに……あぁ、もう腹立つ!」
グチを続ける彼女に、真純は一つ気づいたことを尋ねる。
「でも百夏(ももか)、あんたの眼鏡割れてないじゃない」
彼女は傷一つ無いレンズの向こうから、点になった目で真純を見つめ返す。
「何言ってんの?
これは予備よ。昨日かけてたのとは全然違う眼鏡じゃない。見れば分かるでしょ?」
真純には全く違いが判らなかったが、後が長くなるのが嫌だったから追求しなかった。
彼女は再び、陽炎揺らめく外へと視線を移す。百夏はコップに刺さったストローで氷をもてあそんでいる。15分前、することもなく時間を持て余していた真純と百夏は、蒸し暑い学校から涼しいファミレスへと移動することにした。真純は暇潰しにここに来たのに、大して時間を潰せていないことに苛立ちを覚えていた。百夏の愚痴を聞くことにはとうに飽きている。真純は一つ、遊びを考えてみた。
「ねぇ百夏、ちょっと賭けしない?」
「ん?
どんな?」
真純は店内を見渡す。その目が止まったのは、壁際の席で色眼鏡をかけ腕を組んでいる若い男だった。
「あそこの男の人、あの人がどんな行動を取るか」
「う〜ん。そうね、鼻毛を抜く!」
「何それ……」
呆れる真純を無視して百夏は続ける。
「真純はどうすると思う?」
真純が男の特徴を探すと、さっきの話題も手伝ってか眼鏡に目がとまった。
「……じゃあ私は……あの色眼鏡を外す」
二人はしばらく黙り込み、男を凝視する。男は煙草をくわえ、何か思案に耽っている。
「ねぇ真純。あの人ってひょっとして私達と同じ学校じゃない?」
「え?
……そう、なのかなぁ……?」
真純と百夏の通う
「第三はるな高校」は、このファミレス
「UN DEMAND(アンデマンド)」から見える丘を上ったところにある。この
「はるな市」は臨海地で、丘の上からの眺望は雑誌に載せられるほどだ。学校からの眺めも格別で、一時期は窓の撤廃が本当に思案されたこともある。この街はさほど流行っているワケでもなく、高校は第一から第三までしかなかった。そして第一はるな高校は一昨年に廃校となり、第二はるな高校に吸収された。第三はるな高校は少し町外れに位置するおかげか、吸収の候補には挙がらなかった。
そして今、真純と百夏が見ている男はおおよそ成人しているとは考えにくい年齢。かといって高校生だと言い切れないのは、その口に挟んだ煙草と服のせいだ。二人とそう年齢も変わらないだろうに煙草を吸っている。というか口に加えているだけで、やはり身動き一つ取ることはない。そして、真っ青なアロハシャツ。色眼鏡のせいで目は見えないが、眉にはしっかりと皺が刻み込まれている。真純は少し不安を覚えた。
「ねぇ、なんであの人タバコ吸ってるの?
それにあの服、危ない人じゃない?」
「さぁ、そういう人なんじゃないの?」
真純の問いはあっさりと返されるが、元より大して答えを期待していなかった真純はそれ以上尋ねなかった。真純がジ〜ッと男を見つめていると、視界をさえぎる物が現れた。
「お客様、ご注文はいかがなさいましょうか」
真純が顔を上げると、程よくシャープなアゴに立派なヒゲを蓄えた男性が立っている。
「あ、豊島(としま)さん」
百夏が声を上げると、男性は口を横に広げ笑う。
豊島はこのファミレスのオーナーである。外見では分からないが、ここのオーナーになった当初、歴代最年少だと言われていた。外見では分からないが。
「豊島さん、何か用?」
「何か用って……ここ一応俺の店なんだけど」
ありきたりの返答に真純はげんなりする。
「そんなことは知ってるわよ。私達に用があるかって聞いてるの」
「そうそう、注文だよ。何にする?」
「いらないわよ」
「いらないって……困るんだよねぇ、水一杯で休憩されちゃ」
演技がかった声で豊島は文句を垂れる。確かに真純と百夏の座るテーブルにはコップに入った水が一つずつ。
「そんなこと言ったって今お金ないのよ。この間、新しく服買い込んじゃってさ」
「でもこっちも一応商売だからね」
演技がかった声は変えずに、困ったニュアンスだけを声に含める。顔だけじゃなくここら辺は大人だなぁ、と思える。
「仕方ないな。じゃぁね……」
「はい!
何をお持ち致しましょうか?」
「じゃぁ、水」
「……それ意味ないじゃん!」
せっかくの真純のボケもありきたりのツッコミで潰されてしまう。いじられないと出ない豊島の味にうな垂れる真純。
「じゃあね、烏龍茶」
豊島とのやりとりに飽きた私は、簡潔に用件を済ませる。
「百夏はどうする?」
「カルーアミルク」
「百夏、また昼間っから酒?」
「いいじゃない、どうせこの後用事ないんだし」
百夏は酒豪である。すでに慢性的なアル中の疑いがあり、彼女がアルコールモードに入ると半径5mは空気がアルコール臭くなる。豊島さんは、その空気を吸っただけで顔を真っ赤に染めていた。しかし百夏本人は決して酔わないのである。たとえ血がすべてアルコールになろうとも、酔うことだけはないだろう。
「はい、烏龍茶一つにカルーアミルク一つ。これでよろしいでしょうか?」
「えぇ」
「はい」
豊島は注文を聞くとさっさとキッチンへと戻って行った。
このファミレスには色々不審な点がある。高校生だと知っていて百夏の飲酒を禁止しないこと。そもそもファミレスに
「カルーアミルク」が置いていることがおかしい。豊島は以前、真純にこんなことを言っていた。
「酒はね、人の本性を露わにするからね。それを巧みに使えば色んなことが出来るんだよ。それにこっちには警察よりも強いバックがいるからね。あ、このことは秘密だよ」
つまり、豊島は誰かの本音を聞きたいのだろうか。このファミレスは24時間営業である。たまに休業もするが、何故か豊島は24時間営業の点を譲らないのだ。24時間、夜も営業している。豊島はプレイボーイに憧れているのだろうか。女性特有の好奇心を抱きかけたが、危険なにおいに真純は踏みとどまった。真純は頭を切り替え、なおも考える。
強力なバック。豊島の風体を見れば、その筋の人ではなさそうだ。そこである人を思い出す。さっきの男。色眼鏡に眉根を寄せたアロハシャツの男。あの男ならその筋の人だと考えられなくもない。しかし、高校生が……?
そこまで考えたところで、真純の思考は妨げられた。
自動ドアが開くと、十人を越えるであろう集団が入ってくる。ガヤガヤわめくその集団の茶色いシックな制服を見れば、店内の誰もが第三はるな高校の生徒だと気付いたであろう。
「また和江(かずえ)達、来たわよ」
「そうみたいね」
百夏の一言に真純が頷く。和江はキッチンから応対の為に現れた豊島に先導される。
彼女、和江も二人と同じく第三はるな高校の生徒だ。学年も同じ二年だが、クラスが違うのがせめてもの救いだろう。彼女は学年で一番の美少女と謳われ、人気もある。その証拠にいつでも取り巻きがうじゃうじゃといる。しかし、人気があるのは男にだけである。別に和江が男に媚びたりしているわけではない。女性に好かれない理由のほとんどが女性特有の嫉妬だろう。彼女は男に持てはやされているにも関わらず、彼女は男に見向きもしない。魅せられた男は数知れず、フラれた男も数知れず。そんな和江を高校の女生徒は嫌い、その風を受けながらも和江は平然としている。
そして今も、和江は泰然自若といった様で真純の横を素通りして行った。和江達、もとい和江の取り巻き達はいつもうるさく、苦情が出る前に豊島は彼女らを隅の席へと促す。

和江が席に座り、その隣に一人の女生徒が座る。彼女の名は香織(かおり)。香織は和江の同級生で親友である。和江と付き合う、たった一人の女子である。香織は真純や百夏とも友人で、中学の頃から仲が良かった。でも、高二になり和江と知り合ってから、香織の付き合いが悪くなっていった。和江を良く思っていない真純が香織を制したが、香織は聞き入れずに和江になびいてしまった。香織は和江と話していると楽しいと言っているが、ねたむ女子達の間では、和江の周りの男をかすめようとしているのだと噂になっている。

和江は香織と談笑し、その他の取り巻きは男同士で話しているか香織に話しかけている。和江は取り巻きがうっとうしいのか、見向きもしない。むしろ香織との会話を邪魔され、眉間にしわを寄せている。しかし彼らが香織と話すのは、少しでも和江に寄り付こうと考えているからだ。

真純は頭の中で、どうでもいいやの一言で片付ける。彼女達には彼女達の思惑があるのだろう。私には関係ない。そう考えると、真純は再度店内を見渡す。
この
「UN DEMAND」は、学校から近く住宅街からも遠くはない。涼むことも出来るし、店の中はそこそこ広い。豊島さえ飼い慣らせることが出来れば、この上ない天国である。しかし客は、今来た和江達、真純と百夏、そしてアロハの男を含める数人の個人客がいるだけだ。座席の3割も埋まっていない。何故か。理由は一つ。ここでは何かとトラブルが起こるのだ。偶然と呼ぶには頻度が多すぎる確立で何かが起こる。UFOを見た、深夜に幽霊を見たなんてのは日常茶飯事。その幽霊が無銭飲食をして消えたこともあるらしい。確か以前
「私はキリストであり、釈迦であり、アッラーである」などと格言を残し、格子のその奥へ連れて行かれた方もいらっしゃった。真純と百夏が暇潰しにここへ来たというのも、その
「何か」を見たいからだ。
真純がふと視線を色眼鏡の男へと移す。男は依然として動かない。真純は動け動けと、頭の中で念じる。頭の中では、傀儡のごとく男は舞う。その舞いは、阿波踊りにもドジョウすくいにも見える。果ては全く関係のない顔芸まで見せてくれる。
「ぷっ……」
真純は不覚にも、己の想像に笑ってしまった。
「何?
どうしたの?」
真純は額を押さえながら、百夏に説明する。百夏はしばらく考え込む。
「アハハハハハハハハッ!」
刹那、店中の人間がビクッとおののく。そして、視線が百夏に集まる。
「馬鹿っ!
大声出さないでよ、恥ずかしいじゃない」
真純は小声で牽制する。百夏はごめんごめんといいながらも、声を引きつらせながら笑い続けていた。

スーツ姿の男が自動ドアを抜けて店内へと入ってくる。来客に気づいた眼鏡の女性の店員が男の応対をしている。真純はその様子を何気なく見ていた。女性店員が急ぎ足でキッチンの方へと駆けていく。男はじっと、固まったように動かない。眉を寄せたままただ佇んでいる。真純はこの男を、重役ではないかと推測する。果たして、豊島が男の下に駆けつける。豊島に連れられ、男は動き出す。真純を横切る瞬間、男は真純を睨んだ。真純はひるみ、通り過ぎた男の背中を見つめる。ため息を一つ、真純は携帯で電話をかけた。


「なんやねん。急に呼び出して」
真純と百夏の目の前で不機嫌そうにがなる女。
「だって暇じゃない。何にもすることないとさ、こう馬鹿が欲しくなるじゃない」
「誰が馬鹿や。馬鹿ってのやめや。言うならアホにしぃや、アホに」
「うるさいなぁ。人選、間違ったかなぁ……?」
「こんな時間に呼び出しといてそりゃないやろ」
時刻は既に9時。外は真っ暗である。暇を持て余し、とにかく潰したい真純と百夏は友人を呼んでいた。
「ねぇ千尋(ちひろ)、何か面白い話ない?」
「うっわ、何ちゅうハードル高いフリや」
千尋は真純の要求に応えようと、必死に模索している。この女は千尋。大阪から来たらしい級友だが、他のことは分からない。知りたくもないし。彼女のクラスさえ忘れてしまった。千尋はやっと思い出した話を百夏に話している。真純は首を縦に振るだけで、全く話は聴いていない。何を考えるワケでもなく、ただ呆ける。
「真純、あんた話聴いてるか?」
「え?
効いてる効いてる」
「いや、文字違うし」
真純が人の話に身を入れて聴くことなどあまりない。しかしそれを話している相手に気づかれることはほとんどない。それなのに、千尋にはよく見破られてしまう。中々に付き合いにくいと真純は思った。
「で、何だっけ?」
「だから、バナナボートに乗る男性二人の関係性について、や」
脈絡のない話題に、真純は呆気に取られる。
「は? 何それ?」
「いや、その二人はどういう関係なんやろなってことや」
「……えっと、ホ……モ?」
千尋は真純の頭をパシンとはたく。
「もうちょっとオブラートに包みや。同性愛、同性愛な」
真純は話の展開について行けず、百夏に助けを求める。しかし、百夏は眉根を寄せ、何やら考え込んでいる。無駄だと踏んだ真純はただ二人の会話に耳を寄せる。
「なぁ、同性愛ってどうよ?」
「う〜ん、私は反対かな。だって気持ち悪いじゃない」
「確かにな。でも、同性愛じゃなくてもキモいのはキモいやん」
「例えば?」
「ストーカーとか。援交とかも嫌やん。あと近親、ブッ……!」
真純は慌てて千尋の口を塞いだ。真純の手は制するだけのつもりだったが、勢い余って鼻を殴ってしまう。
「な、何すんや? いきなり殴るて……」
少し赤らむ鼻を押さえ、千尋は文句を言う。
「しっ、ここではそういう類のことは言っちゃいけないの。あんた知らないの?」
「そういう類?」
千尋は私を訝しげに見る。真純は二人の頭を掴み、ムリヤリ頭を低くする。
「ストーカーとか援交とかよ。特に近親云々なんて以ての外!」
真純は小声にも関わらず凄んでみせる。
「ここは、そういう人が集まるのよ」
「そういう人が集まるって、どういうこと?」
今度は百夏が尋ねる。
「百夏、私と同じぐらいここに来てるのに知らないの?
そういう危ない恋愛しか出来ない人が集まるってことよ」
「危ない恋愛って……真純、それはあんたの偏見やで。どんな恋愛しようが人の勝手や。それに、幸せの形なんて人それぞれやねんから」
「それが言えるのは」
その瞬間、眼鏡をかけた女性の店員が、真純達の横を通り過ぎる。真純は口を閉ざし、店員が離れていく様を見守る。店員が、聞こえない距離に離れてやっと真純は口を開く。
「……あんたが当事者じゃなく、傍観者だからよ」
怪しげに真純を見つめる千尋。ワケが分からず目を見開く百夏。沈黙が流れる。最初に話し出したのは百夏だった。
「それじゃ、真純は当事者ってこと?」
そのおよそ期待するに値しない言葉に、真純はうな垂れる。真純突っ伏したまま、目を閉じた。
「成程。さっきのストーカーとか援交だとか近親なんたらに近い愛情をあんたは持ってるワケや」
「違う!」
真純はテーブルを叩き立ち上がる。その怒鳴り声に、百夏の笑い声の時よりも多く、更に痛い視線が集まる。真純は苦虫を噛み潰したまま、腰を落ち着かせる。
「勘弁してよ。私がそんなの持ってるワケないじゃない」
「じゃどういうことなの? ひょっとしてストーキングされてるとか?」
核心を突いた言葉に真純は黙る。しばらくの沈黙の後、真純は話す。
「……ねぇ、夜中歩いてると後ろから誰かがついて来てるような錯覚って、感じる?」
「え? あ、ああ……後ろにおる男がなんやつけて来てるように見えるやつやろ」
「うん……」
真純の表情は至極真剣で、千尋さえ茶化せなくなっている。
「じゃあ、振り返ると何かがさっと隠れたりするのって、何だと思う?」
「でもそういうのって、目の錯覚だったり偶然だったりするんじゃない……?」
「そうだね……」
真純の暗い雰囲気が、次第に百夏と千尋をも呑み込んでいく。
「いつも何処からか視線を感じるのって、変だよね?」
「そんなことないって、真純結構モテるからいろんな人が見てるんだよ」
「そや、気にし過ぎんの身体に悪いで」
真純を慰める二人も既に、真純に何がとり憑いているのか大体分かってきたようだ。
「でも……」
「でも……?」
百夏も千尋も、半身を乗り出して真純の次の言葉を待つ。
「……流石に追いかけ回されるのはおかしいよね……」
その言葉に、二人は闇黒へと完全に呑み込まれてしまった。百夏はやりきれずに瞼を手で覆い、千尋は目を細め窓から空を眺めている。真純は諦めを、百夏は同情を、千尋は今日ここに来た後悔を感じていた。
その時、豊島が三人の側を通り過ぎようとした。
「あ、豊島さん。酒ちょうだい。めっちゃキツいの」
「え? 岡本くんそんなに酒強かったっけ?」
豊島は首を傾げるが、千尋は首をうな垂れさせたままに応える。
「こんな根腐った世の中なんか、飲まなやってられんわ……!」
「じゃ、じゃあ……ウォッカ一つでよろしいでしょうか?」
「あかん! この様子を見てそんなんでいける思うてか!?」
千尋は真純を指差し怒鳴る。
「分かったよ。じゃぁ、ウォッカ二つで……」
「ふざけんのも大概にしいや! ボトルや。ボトルでもってこんかぁ!」
「は、はい、分かりました!」


――30分後。
突っ伏す二人を、百夏が見守っている。
彼女は並ぶビンを互いに打ち合わせ、音を響かせ遊んでいる。
時計の針は二時を回っている。
テーブルに並んだウォッカのボトルは既に二十を越えている。その九割は百夏が消費したものである。彼女はさも当然のように次のウォッカを注文する。店員は急いでボトルを抱えてくる。百夏はボトルを受け取ると後ろを振り向き、豊島のコップにつごうとする。しかし後ろのテーブルでは豊島が崩れている。真純と千尋がつぶれた後、百夏は嫌がる豊島に飲ませ潰してしまった。無言で伏せる三人は急性アルコール中毒の危険性を有しているが、百夏はそんなことを気にしない。百夏は次の獲物を探すべく、目を光らせた。
やはり目につくのは和江とその取り巻きである。時間の経過と共に諦める者が出始め、それを機会に既に帰宅した者もいる。しかし粘り強いと言うか諦めが悪いと言うか、まだ残る者もいる。今まで落とせた人物などいないという現実に気づかないのだろうか。百夏は少し興味を抱いていたが、今彼女の願いは共に飲み明かせる戦友である。他を当たるつもりで客を見定めるが、上物はいないようである。ラインナップは大学生風の男が二人、童顔の男。後は店員しかいないようだ。百夏は吟味するようにそれぞれの顔を眺めていく。
大学生風の男は、友人であるらしく楽しそうに談笑している。がたいの良い男と、坊主頭の男。百夏はその笑みを酒で壊す映像を思い浮かべる。
童顔の男は、じっと見ているとどこか違和感を覚える。何がおかしいというわけではないのだが、何かがおかしい。百夏は奇妙な浮遊感を感じ、目をそらした。
標的を見定め百夏が立ち上がろうとした時、彼女は目の前に座る人物に気が付く。男は千尋を押しのけ、ニヤリと笑いながら座っている。その気配を感じさせぬ出現に百夏はたじろぐ。警戒の視線で百夏は男を見つめる。男の動作一つで、全てが壊れかねない緊張が漂う。刹那、男は手を伸ばした。百夏にはその行為が、スローモーションのように綺麗な流線を描いているように見えた。男の手はボトルへと伸びる。その動きは百夏の比ではなかった。百夏は全てを諦めてその景色を網膜に焼き付けた。まるで彼女の最期であるかのように。そして百夏は目を閉じた。

「これ、俺も飲んでいいよな?」

男はボトルを片手に、コップを片手に訊ねる。眼前の女性は、何故か目を閉じている。彼の言葉を聞いていないのだろうか。彼は確認のため、もう一度話しかける。
「この酒、俺が飲んでもいいのか?」
女性は彼の言葉にゆっくりとゆっくりと目を開く。目を開け始めてから彼は、ひょっとしてこの女性が目を閉じていたのはキスのモーションだったのでは、と少し後悔をした。しかしそうでないことは、目を見開いた彼女の表情が示していた。いかにも男を怪しんでいますと言いたげなその視線に、男は失敗した、と感じた。急に声をかけたのがマズかったろうか。先に断ってから目の前に座った方が良かったろうか。不必要な思案に暮れる男を見つめ、女性は訊ねた。
「え?」
女性の問いに男は困惑する。やはり話を聞いていなかったのだろうか。しかし男はまた考える。もしかすると俺のことを勘違いしているのかもしれない。俺が口説こうとしていて、それが迷惑だから敬遠しているのかもしれない。俺はただ酒を飲んでみたいと思っただけなのに、と。取り繕った男は色眼鏡を外す。
「えっと、俺は鴉場。鴉場茂(からすばしげる)。第三はるな高校の二年。多分お前らと同じだと思うんだけど……」

百夏は、何故この鴉場という男は急に自己紹介など始めたのだろうと思った。もしや、警戒心を解かせるためかもしれない。油断させてその隙に、とでも考えているのだろう。彼女はそう決め、守りを固める。
「えぇ、そのようね。私も第三はるな高校の二年。あなたとはクラスが違うようだけれど。私は永井百夏(ながいももか)よ」
眼鏡を警戒に光らせる百夏。鴉場は警戒の原因を取り払い、やっと当初の目的の酒に手を伸ばす。その手を見て百夏は音を立てそうなほどに退く。困りながらも鴉場は、同じことを聞き返す。
「この酒さ、俺が飲んでも、いいよな?」
やたら腹の立つ口調で鴉場は訊ねる。何なんだろう、この男は。酒が本意なのだろうか。それとも酒で私に勝てる自信を持っているのだろうか。最早、百夏は混沌の渦中に引きずり込まれていた。しかし彼女は威圧的な行動を続ける。

「え〜え、どうぞ」

鴉場はやっと得た了承に、喜び勇む。ボトルの口をひねり、コップになみなみと注ぐ。不毛な過程のことなど忘れ、今は目の前の幸福の波へと漕ぎ出だす鴉場だった。
百夏は必死に自分の酒への自信にしがみついていた。ただ鴉場の雰囲気に飲み込まれぬよう必死だった。


百夏は目下のアロハを、物憂げな瞳で見つめている。結局この男の本意は分からなかったが、彼女にとっては取るに足りない人物だったのだろう。彼女は己の未熟さを痛感した。実際、飲んだことのない酒への対抗心で動いていた鴉場は、たった一杯のウォッカの前に倒れてしまった。ただし以前の三人との決定的な違いは、彼は重度の急性アルコール中毒による人事不省に陥っている。鴉場の命は消えかけ、嵐の前の灯火となっている。しかし、百夏には知れたことではない。彼女が求めるは共に飲み明かせる戦友である。

「おい、何なんだよ、あれ……」
対面で座す二人の大学生はただならぬ恐怖を感じ取っていた。あそこにいるのはたった一人の女性だ。しかもこの二人の学生よりも年下であることは制服を見れば、自ずと分かる。それなのに。それなのに、彼女は次々と赤子をひねるがごとく人を潰していくのだ。その勢いに二人は圧倒されている。しかし、それが彼らの感じる恐怖ではない。次は自分が犠牲になるかもしれない。そんな緊迫感に二人は包まれていた。何故なら、頼みのアロハは切れてしまった。二人は恐竜小屋に放り込まれたように、心底怯えている。
「どうするんだよ……充(みつる)……」
しかし充は賢明であり、逃げることの有意さを知っていた。
「に、逃げるぞ紀人(のりひと)……!」
ただ惜しむらくは遅すぎた。

「ねぇ、あなた達、暇?」

振り返った充が目を見開く。彼の脳内ではそこには脱出の要であるドアが映っている。しかし、彼の目には百夏の笑顔が映っている。充は顔から、頭から、全身から血の気が失せるのを怖いぐらい冷静に感じる。
「紀人……!」
助けを呼んだのかもしれない。助けようとしたのかもしれない。しかし充が呼んだ名は、ただ空しく響く。そして紀人のいた席には、百夏が鎮座していた。充は重い重いめまいを覚える。そのまま気を失えたらどれだけ楽だったろうか。充はこの瞬間に気絶していたら、明日目を覚ますことが出来ただろうと頭の片隅で思った。

何なんだろう。この威圧感は。逃げる瞬間も見られてはいない。今の内に逃げることが出来れば。
紀人はこれまでにない程に神経を研ぎ澄ませている。もしかしたら、彼が神経を研ぎ澄ませることが出来るのはこれが最後ではないか。限界まで張り詰めた緊張は今にも切れんばかりだ。今や彼が感じる視線はキッチンの至るところからにじみ出ている。どろりとした粘液のような視線は、決して離れることなくいつまでもどこまでも手を伸ばしてくる。紀人は血眼になり、キッチンの全てを見透かそうとする。彼は自分のしている行動さえ理解していない。今、彼のしている行為は恐怖を虱潰しに探しているのと同じことだ。そして紀人は見つけてしまう。キッチンの扉から上半身を乗り出し、彼に助けを乞う信之の姿を。紀人は思考を瞬間的に停止した。それは身を守る本能のはずだった。彼は心の中で張り裂けながら叫んだ。彼の時間が止まったのは、実時間にして一秒もなかった。彼の視線の先には暗闇を伴ったドアだけ。そこには人影はない。しかしいるのだ。今の彼の目なら光陰さえ見えるかもしれない。しかし、その眼光は闇の寸分の歪みも見逃さなかった。変化は紀人を壊す。紀人はドアに向かって走る。彼にはそのドアが生への扉そのものであった。ためらいなくドアに体当たりする紀人。しかし扉は開かず、そして背後の気配は迫る。紀人は全身を使って体当たりをしている。肩を、頭を、拳をぶつけて。彼は今、何のためにドアを開けようとしているのかも分かっていない。彼は今、ドアに体当たりをするだけの生き物となっている。そしてもう
「ドアに」という目的さえも失い、紀人はただ体を打ち付けている。百夏に向かって。

和江は駐車場から空を見上げている。そして一度「UN DEMAND」を見ると、彼女は歩き出した。香織がその後ろを一足遅れてついていく。しかし香織は足を止め、不思議そうな瞳で「UN DEMAND」を見る。彼女が感じた声は幻聴だったのだろうか。香織は真実を確かめるでもなく、少し遠くなった和江の背を追いかけた。
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