<汚愛 - owai>

第二章 「許容される愛」


真純は頭を抱えてうずくまっている。彼女は悩んでいるわけでも、考え込んでいるわけでもない。ただの二日酔いでもない。真純は授業中、昨夜の出来事を必死に思い出そうとしていた。しかし彼女には、微笑む百夏と虚ろな目の千尋しか思い出せない。その映像で健全そうな百夏は、昨日は特別なことはなかったと言う。釈然としない真純は、仕方なく千尋を訪ねるが見つからなかった。教師曰く、病院で入院しているらしい。ある程度真面な人間なら、ここでおかしいと気づくだろう。しかし真純はその考えを否定し、こう考える。おかしいのは千尋である。彼女は千尋が入院した理由をこう受け取った。サボり、だと。真純は全ては千尋のせいだと、彼女が生んだ産物なのだと信じ込んでいた。
そして今、彼女は昨日のように「UN DEMAND」に来て、同じ席に座っている。何をするでもなく、ただ窓辺から流れる雲を目で追っていく。彼女は同じような日々を繰り返し、明日も同じようにまた日々を過ごすのだろうと朧げに考えていた。しかし既に昨日とは違い、百夏は傍にいない。変わりに目下には鴉場がいる。何故この男がいるのか確かではないが、真純は鴉場に少なからぬ興味を抱いていた。この男の正体を暴いてみたい、果ては豊島の言っていた強力なバックさえも知りたいと思っている。それ故に、真純は鴉場の言葉を必死に読んでいた。
「絶対に学校ってだるいよなあ?」
鴉場が同級生であることは百夏から聞いている。そして彼が何を考えているのかよく分からないということも聞いた。しかし百夏が何故、鴉場のことをそんなに知っているのかなど、細々したことに真純は興味を抱かなかった。彼女は大義のためなら捨てることを厭わない。
「うん、そうだね」
真純は無難に返答する。鴉場の手の内が分からない以上、悟られることは死を意味する。彼女はそのような世界に身を置いていない。だが彼女の本能が察知しているのだ。真純は至極慎重に核心へと迫る。
「そう言えばさ、今日豊島さんどこいったのかな?」
真純は豊島が自宅療養をしていることを知っていた。何でも心不全を起こしたらしい。百夏はそのお見舞いのために、ここにいないのだ。鴉場は一瞬考え、そして顔を上げて訊ねた。
「ごめん。トシマさんって誰?」
彼女は目を点にする。真純は疲れ、追及を諦めた。

真純はどこからか視線を感じていた。彼女はいつものストーカーかと思った。しかし違う。彼女は視線に含まれる殺気を読んでいた。背中からの視線に注意を払い、真純は鴉場を見る。鴉場は頷き、視線を落とした。どうやら彼も気づいているようだ。その時、殺気が揺らいだ。ゆらりと流れる気は吸い込まれるように真純へと近づく。ゆっくりとしていて、決して速くはない。しかしそれ故に重さを感じさせる歩調で流れてくる。近づくにつれて、その色は濃くなっていく。大きくなるのではなく、滲んだ紫が互いを呼び合い中心に集い黒になっていく。真純が意識を取り戻すと、女はテーブルの横にいた。
「どうぞ」
確かに聞こえたはずの声は真純の耳を通り抜け、真純は顔を上げる。その顔を真純は知っていた。石井洋子(いわいようこ)、このファミレスのバイトだ。彼女の採用が決まった時、豊島が初めて女性のバイトが来たと喜んでいたのを想起する。そして当時、真純は何故か喜べなかったことも思い出した。洋子が置いた物は、ブラックのコーヒーだった。
「あ、どうも」
鴉場はお座なりに会釈する。洋子は満足げに微笑むと速やかに去って行った。真純はその後姿にさっきの闇を見出そうとしたが、既に霧散してしまっていた。
真純が視線を戻すと、鴉場は意外にもコーヒーをすすっている。
「飲んで大丈夫なの?」
「あぁ、今まで彼女がこうしてコーヒーをくれることは何度もあった。最初はずっと断っていたさ。だけど、回数が多くてね。結局こっちが折れて、コーヒーを飲んだんだ。別に不味いわけじゃないし、タダだからな。まあ、あの視線は気になってはいるんだけどな……」
どうしたのだろう。鴉場の口調は、まるで別の人物のようだ。一体何がこの男を変えるのだろう。真純は純粋にこの男が何者なのか知りたくなった。

真純と鴉場が話しているのを、洋子は厨房のドアからのぞいていた。不意に、その肩にポンと手が置かれる。洋子が振り向くと、童顔の男が立っている。男が深く頷くと、洋子も頷いた。


自動ドアが開くと、そこには和江が一人で立っていた。店員が一人寄ってくる。
「お一人様ですか?」
「えぇ、そうよ」
「では……」
和江は店員に連れられ歩き出す。和江はふと、真純の姿に気づく。そしてその前には鴉場がいる。楽しそうに話している二人の横を通り抜け、和江は思った。それもいいかもね、と。二階へと続く階段を上り、店員に先導され和江は座る。
「メニューはこちらになります」
和江は少し辺りをうかがい、人がいないことを確かめる。
「ご注文がお決まりに……」
「ねぇ、あなた」
「え? あ、はい?」
「あなた、バイトの方?」
黒髪をなびかせ、和江は訊ねる。店員はどぎまぎしながら答えた。
「はい、そうですけど……」
「少し時間は空いてますか?」
店員は周りを見、誰もいないことを確認した。
「えぇ、少しくらいなら」


千尋は何か使命感のようなものに突き動かされていた。それは彼女の本能が察知していた。そうでなければ、こんな状態で病院を抜け出したりはしない。朦朧とする頭でふらつきながらも彼女はようやく目的地へと着いた。自動ドアが開く。すると顔見知りの店員が寄ってくる。店員は千尋の顔色を見ると不安そうな顔をする。千尋は大丈夫と言い、入り口すぐの右側のテーブルに座った。やはり彼女のカンは間違っていなかった。ここからなら真純の表情も男の表情も見える。二人は会話に夢中で、千尋には気づいていない。千尋は心の中で歓喜を叫んだ。その時、またも自動ドアが開く。そこから現れたのは香織だった。千尋は慌てて店員よりも早く香織に声をかける。
「香織。香織!」
小声で叫ぶ千尋に気づいて香織は同じテーブルに腰掛ける。
「どうしたの、千尋? あ、そうだ。あんたこんなとこにいて大丈夫なの? 入院したって聞いたけど」
「ああ、あれな。あれ嘘や。誰かが勝手に流した噂や」
「そうなんだ」
香織は納得してくれたようだ。香織が単純で良かった。千尋は今、無駄なことを考える余裕を持ち合わせていなかった。
「で、千尋はここで何してるの?」
「ん? 声を潜める練習や」
「そうなんだ」
真純を観察しながら、千尋は香織との会話を進める。香織は千尋に合わせて小声で話しかける。千尋は香織への返答をお座なりに相槌し、真純の向かいの男を見る。見たことのあるような顔。制服を見れば第三の生徒であることは分かる。だから見たことがあると思ったのかもしれない。それにしても、真純が男と会話するなんて珍しい。真純は和江と同じくらい男に興味持っていないと思っていた。
「でさ、和江ってさ」
「しっ」
声を大きくする香織を、千尋は制する。香織はごめんごめんと軽く謝る。せっかくのチャンスを潰したくはなかった。少し考えた末、千尋は香織の趣味を思い出した。
「なぁ、香織ってマンガ描いてたよな。ちょっと見せてくれへん」
「あ、読んでみたい? 良かったぁ、最近和江しか読んでくれないからさ……」
そう言いながら、鞄をあさる香織。香織はバンドをつけ髪を上げると〆切り間際の漫画家に似ていることで有名だ。そして彼女自身絵を描くことが好きだったため、本人は漫画家を目指すようになった。千尋は香織に手渡されたマンガを目の前に持ち、横目で真純達をのぞく。少し気になって紙に目を移すと、女性が抱き合っていた。


信之(のぶゆき)は一方的に楽しそうに話している。和江は黙って微笑みながら信之の話に聞き入っている。彼から聞き出すことはまだ沢山ありそうだ。和江は作り笑いの辛さに耐えながら、耳を傾ける。持っている情報は少ないが、聞き出しやすいのでバイトを誘って正解だったようだ。何の疑問も持たずに信之は話し続ける。
「でさ、昨日来た男ってのが何だか無性に腹が立つんだよね。雄三(ゆうぞう)さんより偉いらしいけどさ」
「ごめんなさい、雄三さんって誰?」
「あぁ、そっか皆は豊島さんって呼んでるんだよね」
信之の「皆」という言葉が和江の心に引っかかる。和江は香織としか付き合っていない。少なくとも真純や百夏とは会話すらしたことがない。あの、千尋とかいう胡散くさい関西人とは何度か言葉を交わしたことがあるが。
「その男がさ、確か……木邑(きむら)だったと思う。そいつがここの料理食って、不味いって言ったんだよ。別の店の方が美味いなって。実はここフランチャイズらしくてさ。その木邑ってやつ、散々俺達のことけなして帰っていったんだ」
和江は昨日のことを思い出していた。香織が言っていたマンガのこと。香織が話していたヒロインのこと。香織が語っていた抱き合い方のこと……全てが錯綜し、そして一人の男の顔が紡ぎ出される。一言、怪しいで済ますことの出来る風体。和江はこれだと思った。
「何、その人。失礼ね」
「そうだろ。雄三さんはへこへこして頼りにならないし、二人で今後の営業方針決めるからって言ってオーナーズルームで話し終わったら妙に大人しくなってるし。簡単に言いくるめられちゃってさ……」
正しく和江の求める情報だった。確か豊島は今自宅療養しているのだと聞いた。精神に異常をきたしたのだろうか。このままこの信之を操って木邑に近づくのも悪くない。しかし、豊島のことが気にかかる。場合によってはこの手で討たねばならないのだから。
「ごめんなさい。私、ちょっと用事思い出したの。失礼するわ」
いきなり席を立つ和江に信之は追いつけない。
「え? ちょ、ちょっと。待ってよ! 和江ちゃん!」
いきなり「ちゃん」で呼ぶ信之に苛立ちを覚えるが、まだ利用価値があるからあまりないがしろには出来ない。彼女にとって、この対応は別段の扱いではないのである。

「このシーンはね、本当はもっと過激にしたかったの。キスとかもね……」
香織に彼女のマンガの説明、もとい拷問を受ける千尋。彼女の趣味を利用することは悪くなかった。ただ一つ、千尋のミスは香織に同類と見なされてしまったことだ。彼女はマシンガンのごとく危険な発言を放っていく。最早、真純云々は忘れた。ただ、彼女が上手で、こっちはうぶで、誰と誰をさせてみたいなど、もう聞きたくはなかった。彼女の趣味に対する熱情は奔流のごとく氾濫し、他を流していく。千尋も例外でなく、飲み込まれかけている。
(あかん、死ぬる……)
その時である。
「和江!?」
香織が大声を上げ、立ち上がる。
「香織……」
和江が信之といる。千尋は倒れそうになるのを堪えず突っ伏す。香織はわなわなと自作のエロマンガを握る手を振るわせる。
「香織、違うの、ねぇ聞いて……」
和江が伸ばした腕は、香織に弾かれる。香織の目には涙が溢れている。
「やっぱり男が好きだったのね? 私に嘘ついてたのね?」
瞬間、全員が固まる。間違いなく、香織と和江以外の誰もがその動きを止めた。言葉を反芻するスキを与えず、香織はまくし立てる。
「私とは遊びだったのね!」
そう叫ぶや否や、香織は飛び出してしまう。和江は一瞬追いかける素振りを見せるが、素振りで終わらせる。立ち尽くす和江を見る者はいない。まるで合わせたかのように、全員が俯いてしまっていた。


二階の中央の席。店内の全員が今このフロアに集まっている。康男と洋子は共に外出していて、幸か不幸かこの場に居合わせていない。いるのは和江を含め五人。打ちのめされテーブルで体を支えている真純、和江に知られまいと興味を隠す鴉場、上を向き努めて涙を堪える千尋、ただ震える信之。現在、「UN DEMAND」は臨時休業となっている。これから語る和江のたっての願いである。皆が、彼女の言葉を待っている。そして和江は意を決し、神妙な面持ちで語りだした。
「ここからは、過激な表現が含まれます。心臓に疾患をお持ちの方や幼い方は、ここでやめることをお勧めします。また、読まれた際の事故に関しては一切責任を負いかねますので……」
「前置きはいらないから、早く話してくれ」
鴉場のぴしゃりと言い放った言葉に邪魔をされた和江は、一つこほんと咳をする。その間に震えの収まり切らない信之は、一階へと降りていった。残るは三人。
再び和江は言葉を紡ぐ。
「私と香織は愛し合っていたわ」
千尋の目からぶわっと涙が溢れた。力なく千尋は崩れ、そして涙を拭うことも出来ずに、ただただ涙を流す。ひざまずく千尋に声をかけられる者などいなかった。千尋は嗚咽をフロアに響かせドロップアウトした。残るは二人。
「私達が出会ったのは今年の四月、二年になってからのことだったわ。すぐに惹かれあって、お互いの想いを確かめ合った。それからというもの私達はほとんどの時間を二人で過ごすようになったの」
鴉場が確認するように真純を見ると、真純は頷く。
「いつでもどこでも一緒だった。離れたくないという気持ちは二人とも一緒だった。だから今私達は同棲しているの」
その瞬間、真純が崩れた。もう彼女の精神は悲鳴を上げている。しかし意識を保とうと首を振ると、再び立ち上がる。鴉場は真純を気遣うが彼女は大丈夫だと頷く。
「いつも私の周りにいる男子は、カモフラージュにしていた。出来れば私達が付き合っていることは隠していたかった。でないと香織が友人から避けられそうで……香織にそのことを伝えると、彼女は喜んでくれたわ。『私のことを考えてくれるなんて嬉しい』ってね。でもそれも最初だけ。時間と共に香織は疑いだしたの。私が周りにいる男と付き合っているんじゃないか、って。もちろん言葉にはしなかったわ。でも、好きなら何を考えてるかぐらい分かるじゃない。だから敢えて否定しなかったわ。香織にも言葉じゃなくて、感じてほしかったから……」
鴉場は真摯な表情でうんうんと頷く。必死に理解しようと努める真純に比べ、彼はすんなり受け入れることが出来ているようだ。
「私は出来ることなら香織と二人だけでいたかった。でも、香織のことを考えれば男子がいた方が良い。自分のエゴより香織を取ったの。でも、それなのに、香織は仲良さそうに男子と話してるのよ!
香織は私に質問するだけ。それも男子が『聞いてくれないか』っていう質問ばかり……私は、本当のところ疲れていた。好きだけど、諦めたかった……」
鴉場は瞳を閉じ動かない。目尻には光を反射するものがあった。
「今日、ついさっきまで私はバイトの山城(やましろ)信之君と話をしていた。そして帰ろうとした矢先……」
「香織と鉢合わせ、か」
鴉場が和江の言葉を代弁し、和江は力なく頷く。真純は妙な充足感に満たされていた。全てを聞き終え、彼女を支えるものは無くなる。そして、彼女は意識を閉ざした。


和江は香織を愛している。その事実に信之は戸惑いを隠せなかった。一階へと降り、それから彼は頭を抱えながら考えてい達数分前まで、彼は和江に少なからぬ好意を抱き会話をしていた。会話と呼べない一方的なものだったが、彼にとってはとても楽しい有意義な一時であった。しかし今や彼の中で和江は、変人のカテゴリーに分けられている。長く揺れる黒髪、卓越したかのような表情、そして彼の言葉に反応する笑み。その全てが彼の中で崩れてしまっていた。元々彼女とは今日まで会話さえしたことはなかった。ただ沢山の男に守られるように囲まれる彼女を何度か見かける程度だった。そして今日和江から誘われた時、正直なところ
「惚れられている」、そう感じていた。恥辱と困惑と倒錯の最中、信之は少しでも自分の考えを信じたくて和江の告白を聞こうと決心していた。しかし彼の決意は、未知への恐怖に平伏した。信之はバイトを辞める選択肢まで考えた。和江が告白したということは、理解を求めることであり、要はまだこの店に来たいと思っているからだ。それよりも、一般論を重んじる彼には
「同性愛」とは理解しがたく、また、許容しがたいものであった。そして、自分には全く関わりのないものだとも思っていた。信之は動揺に混乱している。顔を上げると、千尋の姿が目に入る。彼女はテーブルに頬杖をつき、窓から暗い空を見上げている。信之は立ち上がり、そっと彼女に近づく。背を向ける彼女の真後ろに立ち、彼は真似て空を見上げる。空はどこまでも暗く果てしない。
「俺は同性愛なんて認められない」
千尋はようやく信之の存在に気づき、彼を見上げる。信之は千尋の向かいの席に座り、掌を握り合わせ言う。
「同性愛なんて異常じゃないか」
拳を見つめる信之を、千尋が見つめる。しばらくの沈黙の後、千尋は闇に包まれた街を眺めた。
「何が良いたいんや?」
「……彼女はおかしいんじゃないか? 女性が女性を愛するなんて、僕には到底理解なんて出来ないよ」
二人とも視線を動かさずに話し続ける。
「そうかもな。あたしも理解は出来へん。でも、あたしらの考えなんか関係なしに二人は好き合ってんや。それにあたしにとっては二人とも友達や。二人が幸せなら、それでいいんや」
「でも、結局二人は仲違いしたじゃないか。結局は続かないんだよ」
「……すぐ縒り戻すんちゃうか? 大したケンカやないやん。ただの勘違いやろ?」
信之は眉根を寄せ、千尋を見る。そして、ハッと自嘲気味にため息をつく。
「分からないな」
鴉場の手助けを求める声が上がったのはその時だった。

うるさい。そう感じて真純は目を覚ました。彼女は闇に浮かぶ一筋の光に目を眩ませる。真純は起き上がろうとするが、二日酔いの朝や一晩泣き明かした朝に感じる頭痛を覚える。彼女は周囲の状況がつかめず、また光の印象が強烈だったため、真純は朝だと思った。怒鳴る頭痛をムリヤリ抑え、真純は光を辿った。
そこはまだ、朝を迎えぬ「UN DEMAND」の店内だった。夜目に慣れた視界がぼやけるが、目を細め辺りを見回すと真純は自分がオーナーズルームから顔を出していることに気づく。真純が目を覚ましたことにいち早く気づいた信之が、キッチンからオーナーズルームに駆け寄る。
「真純ちゃん、起きたんだね。大丈夫?」
真純は一般女性なら見せられない、そんな崩れた表情で応える。
「今、何時……?」
「今? 今は……四時だよ」
キッチンの壁に掛けられた時計を振り返り、信之は心持ち笑顔で言う。真純はどうにか自分がオーナーズルームで寝ていた理由を思い出そうとする。しかし頭痛に阻まれ、真純は苦悶に顔を歪める。
「大丈夫? 辛そうだけど」
本当は、信之の方が真純の表情を見るのが辛いはずだ。しかし信之は心中を表情に出すことはなく、あくまで真純を気づかう。真純は信之の手を借り、キッチンへと、そしてフロアへと出る。
そこにはさっきのメンバーに加え、童顔の男と、バイトの洋子、そして同じくバイトの男がいた。
「さっきの皆以外は、和江ちゃんと香織ちゃんのこと、知らないから」
「そう……」
ようやく真純は倒れるまでの過程を思い出す。そして鬱な気持ちをも取り戻す。真純は和江を見る。和江は何をするでもなく、ただ俯いている。その横の席では、鴉場と千尋が馬鹿騒ぎをしている。その様を眺めていると、バイトの男が真純の下へと寄ってくる。
「大丈夫? 真純ちゃん。突然倒れたって聞いたけど……」
彼は青空大紀(あおぞらだいき)。「UN DEMAND」の深夜のバイトをしている。彼は専門学校に通っているらしく、いつでも眠そうな表情でいる。
「えぇ、大丈夫よ。ただの睡眠不足。一応大紀よりは寝てるんだけどね……」
「僕をあなどらないでよ。鍛え方が違うんだよ、鍛え方が」
大紀は言いながら腕を曲げ、筋肉を叩く仕草を見せる。
「腕なんか鍛えたって寝不足は解消されないわよ〜」
大紀は笑いながら頭を掻いている。真純は自分自身が発したお座なりのツッコミに嫌悪を抱いた。いつも豊島のツッコミをいつも心の中で咎めていた真純だけに、そのショックは計り知れない。
「なんかお腹空いちゃった! 信之、何か作ってよ!」
ムリヤリ真純は声を上げ陽気に見せる。その声を鴉場達も耳にしていた。真純は信之の背を叩き、笑顔を作って見せる。そして早足でフロアへと抜けてくる。その後ろを遅れて大紀がついてくる。さらにその後ろで、信之はため息をついた。


間違いだっただろうか、正解だっただろうか。いくら考えても、どれだけ悩んでも分からない。どうすればいいんだろうか。答えは出てこない。もう諦めようか。それも良いかもしれない。和江は一人、黙々と考えている。香織は去ってしまった。香織が逃げたのは、和江が信之と一緒にいたからだけではない。それ以前から、彼女は和江を疑っていた。それを和江も気づいていた。言い訳をしなかったのは、香織にも言葉ではないものを感じてほしかったから。いや、本当はただ疲れていたのかもしれない。だったら、別れた方が良いのだろうか。その方が楽かもしれない。もう香織に嘘をつくことが辛い。だったら別れた方が良いのかもしれない。
「ちょっと失礼するよ〜」
和江が悩み沈む頭をもたげると、真純が目の前に座っている。和江は邪魔だと思ったが、相手にするのも億劫で何も答えなかった。
「あ〜あ、こんな時間まで家空けて、またお母さんに怒られるな」
和江は夜空を見上げ呟く。和江は独り言だと思い、やはり言葉を返さない。
「和江……ってさ、何考えてるのか分かんないよね」
和江はゆっくりと真純を睨み、聞き返した。
「あなた、何が言いたいの……?」
和江は言葉後に怒りを含ませるが、真純は知らぬ素振りで続ける。
「別に。ただ単に、和江って何を考えてるか分からないって思ったから言っただけよ」
「……別にあなたに分かってほしいとは思わないわ」
「そう。私も理解なんてしない。あんたのこと理解したって、大して得るものなんてないもの」
涼しい顔を和江に向け、真純はずけずけと言ってのける。和江はポーカーフェイスを気取るが、ここまではっきりと言われたことがないのか次第に眉をひそめる。
「言うわね」
「えぇ、何も分かってない人にははっきり言うしかないでしょ」
何を言っているのとばかりに和江は睨めつける。和江の態度に、真純はふぅとため息をつく。
「あなたに、何が分かるって言うの」
表情に気づかう余裕も無くし、それとは逆に和江の声は表情を失う。
「あんたは何を分かってるの?」
「何が言いたいの? 言いたいことがあるなら言いなさい……!」
努めて和江は声を押し殺す。彼女にとって感情を見せることは不名誉なのである。
「あんたは、香織のことをちっとも分かってない」
真純の言葉に和江は一転、目を点にする。そして嘲るように笑って言う。
「何を言い出すかと思えば……いい? 今、香織の一番近くにいるのは……」
「あんたかもね。でも、それは物理的な距離……あんたの心は、香織に向いていたかしら?」
真純は和江の言葉を奪い、さらに打ち返す。
「……説教でもしてる積もり? あなたに言われなくてもすべきことは分かってるわ」
和江は向きになって反撃をしようとする。しかし今は真純が優位に立っていた。
「そう。じゃあ、何故、今、ここに、あんたはいるの?」
真純は説くようにゆっくり、スタッカートに従うように話す。和江は心配するような、それでいて苛むような真純の目から視線を外す。俯く和江を、真純は引くことなく咎める。
「和江、あんたがムキになるのはなぜ? 香織のため? 自分のため?」
「それは……確かに、私自身の為よ。そう、私はあなたとの口論を望んでないの。そんな余裕はないの」
「余裕がないのは、時間じゃなくてあなた自身でしょ」
「失礼な人ね。初めて話すような人に、そんなこと言われたくないわ」
キッと眉根を吊り上げ和江は真純を睨みつける。真純は怒りを誘うよう大きくため息をつく。
「そうね。確かに私達は今日知り合ったも同然ね。だから、私はあんたよりも香織の心配をしてるの。香織の幸せを考えているの」
「私達の絆を、さっきの私の言葉だけで全て理解した積もりかしら。それなら勘違いも甚だしいわね。私達は、言葉だけでは表せない『愛』を共有しているのよ」
真純は諦めたかのように目を伏せる。和江は勝ち誇った笑みを浮かべる。しかし自然と零れる真純のため息にさえぎられた。
「和江って……ほんっと、馬鹿ね!」
「な……!」
真純は募る憤りを抑えきれず、終に吐き出してしまう。和江は驚きのあまり、動けないでいる。
「あんたは香織との関係をさっきから『言葉では表せない』って言うけど、単に言いたくなかっただけでしょ?
香織が離れてしまうのが怖かったんでしょ?
それを、何よ。私は香織のことを心配してますなんて顔しないでよ!」
和江は反論することも忘れ、真純の怒りに翻弄されている。
「香織が逃げたくなるのも分かるわ……あんたは香織を鏡にして、結局は自分自身を見てたんだもの」
和江は心を見透かされたと顔に出すことを躊躇わなかった。
「あんたは自分を好きでいてくれる香織を好きになったんでしょ」
今度こそ和江は絶句した。和江は、何故これほどまで心を読まれたのか、全く理解できなかった。初めて話すような女に、全てを見られてしまった。こんなに本心を暴かれたことは、一度たりともなかった。何故なら、読まれぬようにすることが生きる道だったから。読まれれば生きてはいけないから。
「あんたがまだ香織のことを想っているのなら、香織はそのことを感じられる。そしてその方法は、考えなくても分かることよね……?」
和江は己の命の危険に畏怖していた。香織とのことも気がかりだが、今は真純への恐れが強かった。
「……私の見込み違いだったかしら。あなたに香織を託したのは失敗だったかもね……」
「あなたは、香織のことをよく知っているの……?」
「ええ、知っているわ」
和江は、最後の悪あがきをしていた。どうせなら、散る前に一花咲かそうと考えていた。
「じゃあ、私はどうすればいいの……?」
和江は自尊心を捨て、真純にすがる。真純はニヤリと微笑む。
「今直ぐ香織を追って」
和江は目を点にして驚く。まさかそんな簡単なことで、二人の溝を埋めることができようか。真純は和江に囁きかける。
「香織はあなたを待ってるの。だから。追ってあげて」
和江は真純を信じ、店から飛び出す。自分の為に、香織の為に。


和江が店へ戻ってきたのは、空が白み始めた頃だった。彼女は一人で、それも酷く落胆しながら歩いてきた。誰も声をかけることが出来ず、沈黙が流れる。しかし千尋だけが、和江の不安を感じ取っていた。何故か。それは千尋が追い求めるものだったから。

それから、和江は「UN DEMAND」に居続けた。真純や鴉場が学校へ向かっても、千尋が血を吐き病院へ送り返されても、彼女は動じることなく待ち続けた。根拠などない。ただ香織がここへやってくるのを願っていた。もし来なければ、その時は……香織は既に死んでいるということであり、次に待つのは和江の死であるということだった。和江は待ち続けた。雨の日も、風の日も、嵐の日も、世界最後の日も。和江は待った。香織か自分の死が来るまで……

和江が待ち始めてから数時間後、真純が戻ってきた。真純はどうしても気にかかるらしく、授業をサボりやってきた。そして鴉場が教師を殴り停学になって店へとやってきた。千尋がまたも病院から抜け出し、血を吐き病院へ再度送り返されたりもした。百夏が来て、酒を飲むと言い出し真純と一悶着したり、百夏に飲ませるぐらいならと真純が飲み干し急性アルコール中毒になったりした時は、流石の和江もキレた。しかし話の都合上、彼女は待ち続けた。

香織が現れたのは、皆がそろそろ展開に飽きてきたかな、という頃合いだった。
「香織……」
「か、ずえ……!」
香織は和江の顔を見るなり逃げようとする。それを止めたのは鴉場だった。彼は香織の腕を掴み放さない。
「放してよ!」
香織は皆に背を向け俯いたまま叫ぶ。決して顔を向けることなく叫ぶ。
「放してってば!」
鴉場は振り向き、和江を見つめる。和江はゆっくりと立ち上がり、二人に近づく。香織はその間にも逃げようと試みるが、並々ならぬ鴉場の腕力に押し込められ、身動き一つ取ることが出来ない。鴉場はつい日頃の癖でスリーパーホールドを極めてしまう。香織が泡を吹き始めると、ようやく皆が気づき香織の命は救われた。
「ゲフッゲホッ! ガフッ、ウォエッ!」
有り得ないえずき方で反吐を出す香織を無視して、和江は物語を進める。
「香織……ごめんなさい。私、あなたのことちゃんと考えてなかった」
「ォエッ。ゴボッ」
「ねぇ、お願い。私の話を聞いて!」
「グェボッ……」
「聞いてよぉ……」
和江の願いも空しく、香織は眠った。

暗い部屋の中。まだ夕方だと言うのに、その暗さはまるで夜のそれだ。眠る香織の傍で、和江はタオルを絞っている。水滴が水面に弾ける音が響き、香織は目を覚ます。
「あ……」
香織は和江を見ると、すぐに顔を曇らせる。
「起きたのね……」
和江は覚悟を決め、今や穏やかな表情である。和江はタオルを香織の額に乗せる。タオルを振り落とすことが出来ず、香織は視線だけを逸らす。
「良かった、香織が無事で……本当に良かった……」
香織が和江の顔をちらりと見ると、和江は涙を流していた。
「ごめんなさい。私、あなたのことちっとも考えてなかった。だからね、昨日からずっと、ずっと考えたの」
和江の涙を見て、香織はまたも視線を逸らす。
「あのね、私……」
「言わないで……」
「え……?」
「それ以上言わないで!」
急に大声を上げる香織に和江はたじろぐ。
「和江の答えなんか聞きたくない!」
今や二人とも涙を流していた。しかしその意味するところは違っていた。
「どうして……?」
「……」
「ねえ、どうしてよ……」
香織の肩を揺さぶり和江は必死に訊ねる。すると、香織は痛苦に耐え切れず叫んだ。
「あなたと……和江と別れたくないからよ!」
「え……?」
思いがけぬ返答にその意味を理解出来ない。
「それって、どういう……」
「だって、だって昨日、私あんな酷いこと言って、和江を困らせた」
香織は嗚咽に言葉を途切れさせながら、それでも必死に言葉を紡いだ。
「私は、ただ和江と、一緒に、いれればいいの……だから」
香織の言葉は次第に力を失う。
「だから、別れるなんて言わないで……」
そして嗚咽と言葉が同化する。
和江はやっと香織の気持ちを知った。本当の気持ちを知り、香織に萌え……愛情を、深い愛情を覚えた。和江は香織を抱き締める。
「別れないわよ」
「え……?」
香織はゆっくりと瞳を開き、抱き締める和江の顔を確認する。
「別れないわよ。こんなに愛しい人と」
「かず、え……?」
「どうしたら別れることが出来るのよ? 香織……」
和江はぎゅっと、軋む音が鳴るほどに香織を抱き締めた。
「え、じゃあ……私達別れないで、いいの……?」
一度腕を解くと、和江は言った。
「もちろんよ!」

「一件落着……やな」
「一時はどうなることかと思ったけどね」
「真純の言葉が効いたんじゃないか?」
「あんたもキめてたじゃない」
「……はい、スイマセン……」
キッチンから聞き耳を立てていた三人はホッと胸を撫で下ろす。
「ん……何か、肩の荷ぃ下りたら、気ぃ抜けて腹減ったな」
伸びをし肩をならしながら言う千尋に二人も同意する。
「そうね、確かにお腹空いたわね」
「うっし、じゃあ山城、頼んだぞ!」
鴉場は軽快に信之の背中を叩く。
「ちょっと、みんな営業中だってこと忘れてない?」
「気にすんなや。あたしら以外、大して客の来ぇへん店やねんから」
そうだそうだと二人は同意する。
「まぁ、二人がもとの鞘に収まったんだし良いかな……?」
信之は独り呟き、ふっと軽く微笑んだ。

それから一晩、皆は笑って過ごした。

千尋はオーナーズルームに忍び込み、豊島秘蔵の酒を見つけ出した。勿論、あんな本やビデオを見つけたりもしたが、メイドものが多く、名誉毀損で訴えられかねないので伏せておいた。酒は、百夏がいないことを重々、事細かに確認した上で皆で飲んだ。酔った真純は和江に絡み、酔った鴉場は香織に卍固めをかけたりしていた。果ては真純と鴉場が手を組み、和江と香織にキスをするよう囃し立てた。初めは遠慮がちだった二人だが、酒に呑まれたのか、その気になってしまう。真純達が盛り上げると、次第に香織は顔を高揚させ始めた。これは本物だと目を見張る千尋の顔面に鴉場の裏拳が入る。千尋はうずくまり起き上がることが出来ず、その間に歓声が湧き上がってしまう。痛みに耐えながら起き上がると、和江と香織は互いに頬を染めていた。そして観衆は、皆思い思いに涙を流していた。千尋は色んな意味で「良かった」と思った。

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